中途半端な本の感想

読み終わる前に感想を書くのもどうかと思うが、読んでいてつらいのとどうにかなるのかなと若干楽に思えるのと思考が無になる感じが自分の読書体験として特殊だし、読むのを少しだけすすめたい気持ちがあるから書く。あと文章をとにかく書きたいから。正直、最後のが一番だ。


坂口恭平の「躁鬱日記」
少し前までは躁鬱病、今は双極性障害としていわれるそれを患う…というのにも何だか語弊を感じるのは、彼自身がそれを治すのは諦めて操縦していくとしているからで、そんな彼の躁と鬱を繰り返す生活を記録している、タイトル通りの本だ。
坂口恭平に興味があるのは、いいたいことややってることがまるで冴えた子どもの自由研究のように、可能性が込められていておもしろい…とはいいますが実は、ワタリウム美術館で展示を観た以外にいのちの電話をやってたこととかたまにツイッター見たりとかでしか知らなくて、本はこの躁鬱日記が初めてだったりする。
躁鬱日記内でも彼のやっていることが少し分かるんだけど、それよりもこの本の興味深い点は、彼がどう自らを見ているか、感じているかに尽きる。要は、病にどんなふうに向き合っているかというところなんだけど(簡単にいい過ぎか)。
病を、自分を操縦、というところがまず魅力的で読みたくなった。
私は身体もぐだくだだし精神的にも今は調子が悪く、心身ともに自らをコントロールできていなくて、どうしたらいいんだろうと大体は壁にぶつかっている。たまに訪れる精神の八方ふさがりの抜け道はひとだったり音楽だったり物だったり、なんとなくは分かってはいるけども、抜けても抜けても壁ばかりのときもあって、そんなときは混乱するしかなくて困っている。
この本を読んだところで感じるのは、坂口恭平の圧倒的な、わけの分からないぐらいの強い想像力、創造力のほうが合うな、そういった才能と、家族や友人の支えの強さで、自分の混乱にとって何になるのか?と考えたらあまり答えは出せないんだけど、生きることに必要なものがシンプルに見えてくるように思う。
躁(と鬱でない)の時期と鬱の時期に分かれて配置された記録それ自体が、人生そのままやってりゃいいし悪い意味で何かやっちゃいそうなときは抑える努力を少しずつおぼえて実践していって、生きていけばいいだろと教えてくれているような感じがする。
でも、家族との交流を読んでいるとうらやましくて、自分がまさに鬱のときはつらい。たまに襲ってくる理由の無い孤独感に包まれているときには読めない。しぬ。病んでるやつらは気をつけろ。
あと、日記だから小説みたいにカチリと決まったタイミングで何かが起きないし、エッセイほど伝えてこようという気負いも感じなくて、自分がぼんやりしていてとにかく文字だけ追いたいときにちょうどいい。他人の日記なんて実はどうでも良いからちょうどいい。もちろん、ガンッとくることもあるし、基本的には好きなんだけど。
誰にでもおすすめしたい気はないけど、恐ろしくドラマチックでどろどろ甘々げろげろみたいな重さに耐えられない状況のひとにはすすめたい。何がドラマチックなのかってところはあるんだけどさ。
しかし私はまだ全部読めていないので、ほんとどうしようもない。


記録というのが、自分がパーソナル・ジンを作ることに近いような気もしている。
それで、あーこれからもバカみたいなやつ作ってこうとちょっと安心した。