先生の映画

私にとってホドロフスキーは神。
ソフィアはソフィア。どこかにいるひと。
そして、先生。大先生は、タランティーノじゃないかと思う。
私はこの3人の映画が好きで、極端なことでもなく映画が好きというよりこの3人の映画が好きのほうが正しいとすら思う。


で、今タランティーノといえば、ヘイトフル・エイトですよ。
早速観てきた。
これはストーリーを知ってから観るのを全くおすすめしないから、ストーリーに関しては書かない。安心してくれ!


ジャンゴを観たときには、タランティーノが遠くにいっちまったぜ…と目を細めたことをまず書いておく。
あの映画には間違いなく、誰もが納得できる正義があった。
そりゃ暴力的で褒められたやりかたじゃないけど、殺す、倒すことに意味があった。
わたしらのタランティーノといえば、殺しに大義などほぼ無かった。(キル・ビルはあるように見えるが、そもそも復讐劇という設定が先にきているように思うのでやや外れる。)
殺しに大義なんて無いのが健全なのだ。だからこそタランティーノ作品内の殺しを楽しめた。
ところが、イングロリアス・バスターズ、ジャンゴと程度は違えど歴史を下敷きにした作品には明確な敵と正義が設定されており、タランティーノが新たな道へ進んだのがよく分かる。
イングロリアス・バスターズは彼にしてはどこかクールな作りで、舞台が舞台なだけにそうなったのか歴史のアレンジという新たな試みだからか、狂気の面は薄い。というか、これまでと質の異なる、寒気を感じる狂気がある。これは想像に過ぎないが、大抵のひとなら"何が"悪なのかを意識して観るだろう。そのこととこの映画に現れる暴力に対する暴力が結びつくのは正直楽しんで良いのか迷うところがあるので、"適温"だったのではないかと思う。
対して、ジャンゴは史実ではないためかぐんと温度が上がった。これまた、非常に慎重に作らなくてはならないテーマに挑んでいたが、私は成功していたように思う。少なくとも「私には◯◯の友人がいるから、そのひとたちの気持ちが分かる」という表面的な態度よりもよっぽど真摯な姿勢を示していた。
その上、タランティーノらしい血みどろアクション西部劇として成立しているのだ。
個人的にはジャッキー・ブラウン以来の、主人公の側にいながら観たタランティーノ作品だった。
イングロリアス・バスターズもジャンゴも差別者が敵という点は同じだが、前者はその戦い方に戦争を想起させることが迷いを呼び、後者は個人の闘争だったことが熱を起こすという違いを生んだ。
ジャンゴは映画として、素晴らしいと思った。娯楽でありながらしっかりとアンチ・レイシズムのメッセージが刻まれていた。昨年公開のマッド・マックスFRがフェミニズム、または男女間において優位など無いのが当然であることが根底にあったように、といえば分かりやすいだろうか。
さて、関係無いマッド・マックスまで出したのに、肝心のヘイトフル・エイトはどこにいったのか。
ここまでは前置きである。
ヘイトフル・エイトは歴史もアンチ・レイシズムも咀嚼し消化した、まさしく…いや、言葉にするのはやめておこう。
端的にいうと最高の映画だった。わたしらのタランティーノ、だ。
そもそも、暴力や殺人はくそなのだ(あ、書いちゃった)。一度書いたけども、再び。殺しに大義など存在するべきではない。
この映画には正義も敵も無く、登場人物たちがただの人間であることが描かれる。
しかしどんな悲喜劇のような出来事も、このただの人間たちが引き起こしているという真理がここに表されているといっても過言ではない。
そんなシンプルなテーマを、冴えた俳優たち、凝った舞台に小道具や衣装、映像とともに観客を高揚させる音楽など手を抜かないどころでなく盛りに盛って表現した、彼にしかできない芸術作品がヘイトフル・エイトなのである。
あ〜〜、みんな、観てね!