映画観た

メッセージを観た。もともとそう興味は無かったのが、ネタバレなしのあるレビューを読んで、とてつもなく観たくなった。
原作は未読。
SF映画も小説もあまり親しみが無いので、そういった見地からの考察はできないがだからこそ、映画内の言葉をそのまま吸収できたように思う。
さーてネタバレするぞ〜!


まず、映画が終わったときの感想は、悲しくてたまらなかった。
単純にまず、娘が死ぬことが分かるから。未来が分かっていようが、娘の死は変えられない。それはヘプタポッドの、時の概念が無く人間のいう過去現在未来が分かるという性質により証明されている。
もうそれが猛烈に悲しい。
ちょっと関係ないけど、可能性の無さには何者にも勝てないというのを、感じたことがある。自分は内臓の構造のために出産できないのでは?と思い込んだことがあり(結局勘違いだったしこのときはノイローゼ気味だったと思う…)、扉が閉じたというよりも消滅した、という感じだった。
「ありえたかもしれない(けど実際には全くない)」という状況を重ねてしまって、胸が痛かった。
もうひとつは、(多分なんだけど)娘の死が分かることを知った旦那のイアンが離れていったこと。結局のところ、ルイーズを理解しようとしなかったというか、できなかったというか。イアンという凡人の限界がそこなのだろう。批判でも何でもなく、ものごとの理解できる限界というのは個人差はあれどやはり存在するのが事実だと私は生きてて分かっている。それは批判できることではない。
だけど改めて突きつけられると、これまた猛烈に悲しい。
ルイーズは他の人間には無い、未来が見えてしまう能力を抱えながら、孤独に生きていかなければならないのだ、悲しい。
この映画が悲しく、さらに怖いのは、誰も選択などできないと叩きつけてくるからだ。
私は、ルイーズが未来の娘が死ぬと分かっていながら、未来の旦那が自分のもとからいなくなると分かっていながら、結婚し娘を産むことを選択したのではないと思う。彼女に選択など存在しない。もちろん他の人間にも、ヘプタポッドにも。それは現実にもそうで、普段選択しているように感じてもそのとき外した選択肢は二度と自分の前に戻ってきやしない。もし、を想像しても、どうにもならないということ。似たような状況が訪れるもしれないが、決して同じではない。もしを想像して無意味ではないのは似たような状況に対処できるからであって、過去を取り戻したりやり直せたりするからではない。
未来に対して、分からないがゆえに希望と不安を感じることはよくあると思うけど、ルイーズの能力ではその全てを知ることができるから、私にはそれがとても恐ろしかった。希望も不安も全て事前に見えて感じていながら、体感もしなくてはならないのはひどく消耗することだと思う。何も変えられないという事実も寄り添うから余計に。


この映画が何だったのか、正直私にはよく分からない。強いていえば、悲しみに耐えて強くならなければならなかった聡明な1人の女性の生を通じて、他人を受け入れることの難解さを見たように思う。
賢く、ひとの言葉に耳を傾け思考し、判断すること。それが終始できていたのは、作中ではルイーズだけだった。
メディアで世界の危機を煽るひと、煽られ暴走し爆弾を仕掛ける軍人や、「道具」か「武器」かを勝手に決め付け敵を作ろうとする政府関係者、他国を遮断しあう各国、ヘプタポッドを先行攻撃しようとする中国。ルイーズがいることにより世界の構造はゼロサムゲームということが浮き彫りになる。結果(といういいかたは正しくないが)、ヘプタポッドの住む星含め、世界は救われる。
この映画でコミュニケーションを取ることとは何かをも教えてくれているかもしれないが、それを読み取れない鑑賞者も少なくないだろう。世界の皆が同じコミュニケーション方法を取れるわけはなく、何がコミュニケーションなのかということを理解しないひとがいて当然だ。みな同じ脳を持っているわけではない。作中でも、ルイーズが現れる前には人間とヘプタポッドとの会話はほぼ成立していなかった。
その溝を完全に埋めることはできないと理解しながら必要ならば相手に近づこうと努力することを放棄しなければ、何らかの道があることに気づくことはできるだろう。しつこいかもしれないが、もちろん気づかないままでいるひともいるのだ。自分がそうであることも忘れてはいけない。
そういった様々な事象に見舞われながらも何とかやっていくことを諦めずに絶望しないことが、私たちには、いや少なくとも私には必要なのだろうと思う。