「フランシス・ハ」の感想

毎日同じような仕事をして、ときどき最高の友人たちと笑いあって、くそ甘い恋愛まがいの時間に流されて、ある朝目覚め「疲れた」と気づくも忘れたふりをして生活を、すごろくの駒を進めるように過ごしていく。ある昼の晴れた外の空気と自らの重さとの差にしばし呆然とし、夜には覆いかぶさる疲労とともに浅い呼吸をしながら考えることはせいぜい一週間以内の予定。
まぶたが下がった瞬間、始まる一日。
駆け抜けているつもりはないのにまるで光の速さで、自分を巻き込み日々が過ぎていくのをその外からスローモーションで見ているような気分だ。







以上のポエム文をまじで読んでくれたお前が私は好きだ。
茶化すつもりは無い、無いよ!ただ、お前もか、とちょっと複雑な気持ちなんだ。
これはひとまず置いておいて。


先日、「フランシス・ハ」(ノア・バームバック監督)を観てきました。
(以下、映画の内容書きまくってます。)
映画の公開前に行われたライターの山崎まどかさんと今回字幕を担当した西山敦子さんのトークショーもしっかり聞いたので前もって筋を知り、「これは私の希望なのでは」と期待し興奮して、いざ!
…ふたを開けてみて、苦笑いどころか虫の居所が悪くなった私の小さな反撃として、映画の公式サイトにありがちな、本編となんか雰囲気のずれたイントロダクション風あらすじを勝手に書いたので読んでください。
『20代後半、女、現在フリー。貯金なんて全くなくて、たとえば夜のATMの手数料に、一瞬ひるんだりしちゃう。でも「大人」だから、なんとか振り切って現金をつかむ。
普段は仕事をしていて、あいた時間の趣味というか生活の一部って感じで、本を読んだり、アートも結構好きだし、映画もまあまあ観る。
仕事に満足してるかっていったら、全然。給料は低いし、このまま続けてどうにかなるのかなって不安に思うし、でもそういうのは最高の友人に会ってぎゃははって笑ってたら吹き飛んじゃう。まあ、1人になったとき、思い出すんだけど。
恋人は、まあ、いたりいなかったり…いや、もてるとかそんなことはほんと無いんだけどね。それよりも感性がこう、ぎゅっと近くて、ていうかおんなじなんじゃないかなってひと、多分どっかにいてさ。
やりたいことは、あるけど…難しいし、やっぱ時期ってあると思うし、今はそれどころじゃなくて!お金もないし!
人生の迷路、絶賛驀進中!ちょこっとビター、働き女子の今一番「リアル」なガールズ・ムービー、近日公開!』
馬鹿にしてるんじゃない。まじできつかったんだ。傷心なんだからこのぐらい許してくれ!(すみません。映画が悪いんじゃない。この先引き続き読んでくれ)
何がきつかったって、まずフランシスと自分の状況がとても近いことがひとつ。主人公のフランシス27歳女、低所得。私かよ。
イントロ風文章に戻りますが、ATMのくだり、最高じゃない?これ、映画の最初のほうに出てきたシーンから引用しましたが、これをわざわざ描いた感覚はとても好きです。このときにはまだ「わかるー馬鹿だなー」と余裕もって観ていたんですが、だんだんと、全速力なのに遅い、しかし暴走状態のフランシスにそれはないだろ…と呆れ不快感すら感じてしまって、ところが映画はまあまあハッピーエンドを迎え、置いてきぼりの私26歳女、低所得。
映画の結末、フランシスは迷路から抜け出す道を歩き始める。
私(たち)は、自分も!と立ち上がることができない。


■以上、2014年9月に。以下より、2015年9月に書いた
人生に迷う女の話という一見ありがちなこの物語は、男女関係無くたいていの人間はぶつかるだろう年齢・仕事の問題と社会的欠陥ともいえる彼女自身の精神的な未熟さが交わって、ある種の人間にはとっっっても響いた挙句しびれて動けないぐらい見事にとある人間の青春や成長を描いている。
舞台はニューヨーク。若者がそれぞれ思いをもって集まる土地だ。この身ひとつで何かやってやろう―そんな夢を少なからず抱いてやってきただろう若者たちが。
しかし、若者は歳を重ね、夢を捨て生き延びるか、一縷の望みにしがみつき何とか食いつないでいくか選ばなくてはならないと考え始める。(きっと、他の方法だってある。でもまだ気づかない。)
フランシスは彼氏との同棲(結婚だっけ?)についての話をきっかけに別れ、シェアメイトでもあった親友は、憧れの土地への移住は今しかないと決め出て行った。
シェアの解消で困窮が迫るところに追い討ちをかけるように、目指しているプロダンサーの道を諦めるよう促される。
そんな、この世代だからこその様々な変化によって思いっきり揺さぶられ戸惑いあがくフランシスの姿が、周囲の人物とのやりとりの細やかな描写によってくっきりと映し出され、人によっては痛いところをずっと釘で打ち続けられている状態で鑑賞することになる…(私は傷だらけで帰路を辿った…)。


冒頭の文のような思いを抱えため息をついている私は、いや、あえて私たちにしよう。私たちは、もう大人(だよね?)で、必死に生きているつもりが理不尽なことに振り回されて、それでもまあまあうまく立ち回る知恵もついているし生きてたらそんなもんじゃんって、訳知り顔でいえるはずなんだ。5年くらい前ならすぐにくそーっ!て熱くなって、そのまま何かにぶつけたりして解消したりまたはあっさり忘れたりしてたけれども。
今の私たちは大分賢くなった。歳をとることがどんな変化をもたらしたかに気づき、ひとを傷つけるやり方も経験で知った。それに、自分からの周囲への影響がどれほどの大きさか―正しくはわずかなものかを読んでから腰を上げることがこの世の作法だと納得している。だけど、そんなもんじゃん、と飲み込み続けてあるとき胸のあたりでつっかえて、ちげえよってやっぱり戻してしまう。
私たちは賢くなったから、突然下りてくる天啓みたいな希望なんてのはそうそう無く、根っこがあってだんだん伸びてくるものこそがそれだと実は理解しているのだ。だから自信をもって、伸びた枝をさらに太く、長く、していけばいい。間引きするように耳を貸さなくて良いことを選び、肥料を与えるように必要な知識を探し吸収する。
フランシスはつまり、彼女の27年間をもとにこの先の道を作り上げていくことを自覚し歩き始める。失敗も諦めも正しいかどうかは分からない、それでも少しずつ歩いてゆくことで、誰だって生きていける。映画は私たちに柔らかな光を見せてくれる。
映画を観た当初はフランシスの成長が眩いだけに感じて、かなり凹んだ。二度と観返したくないとすら思った。その後1年経ち、私は未だに迷路をうろついているし全然抜け出せる気がしていない。この間に(あたりまえだけど)世の中も個人的にも色んな変化があった。完全なる個人的感想では、どんより。不安でいっぱい。泣いちゃう。
だけど何とかやってる。
フランシスと同じ年齢になった今、この映画をもう一度観てもいいかなと思う。そこらを走り回るフランシスを見て、ちょっと胸を痛めながら笑いたくなった。